ストリートミュージシャン
休日の駅前や夜の繫華街を歩いていると、ストリートミュージシャンの路上ライヴを見掛ける事がある。
ツンと冷えた街の空気を突き抜けて、耳に飛び込んでくるギターやキーボードのちょっとノイジーな音色、気持ち良さそうに歌っている声に惹かれて、ふと振り向いてみた方は多いのではないだろうか。
ああ、聞いてみたいな、という好奇心が頭をもたげるが、残念な事に、私が彼等に出会う時は、大抵バスの時刻に急かされている時だ。
日々の余裕のなさを噛み締め、足早にバスターミナルに向かいながら、何となくお祭りに参加し損ねたような気分に襲われる。
彼等の音楽を聞いたり、彼等とお知り合いになったりする機会にはなかなか恵まれないが、過去には印象的なストリートミュージシャンに出会った経験がある。
今回は、私のそんな思い出話にお付き合いいただけたら光栄だ。
随分と前の話になるが、私は当時、繁華街の一角に住んでいた。
繁華街といっても、キラキラした若者達が闊歩するような都市部ではなく、もっと素朴な片田舎の街である。
その街で、何故か私の家の真ん前をステージにして路上ライヴを行っている、青年二人組のストリートミュージシャンがいた。
二人共地べたに座り込み、一人はギターを奏で、一人は良く通る声で歌っていた。
彼等の路上ライヴは、ほぼ毎晩行われていた。
辺りのネオンサインはそれなりに華やかで、ステージとしての装飾は申し分ないが、夜のストリートを歩くのは千鳥足のおじさまばかりだ。
彼等のリスナーになってくれそうな若い人は殆ど通らず、それが少々気の毒に思えた。
家の前で大声を張り上げて歌う為、当然、歌は家の中にまで漏れ聞こえてきてくる。
ほぼ毎晩聞く内に、私はいつしか彼等の歌を覚えてしまった。
何かの拍子に出てきた鼻歌が、彼等の歌だと気付いた時には、思わず吹き出したものだ。
或る時、我が家の風呂が故障し、修理の間、数日の銭湯通いを余儀なくされた。
幸い近所に銭湯があり、その夜、入浴を済ませて帰宅してみると、くだんの青年二人組が我が家の前を陣取って、出入り口を塞いでいるではないか。
二人は何やら真剣な面持ちで、曲について語り合っている。
自分の家なのだから堂々と入ればいいのだが、余りに二人が熱心なので、声を掛けるのも悪いような気がして、しばらく距離を置いて待つ事にした。
二人の間に熱のこもったディスカッションが繰り広げられる一方、私は湯冷めしてだんだん寒くなってきた。
そして、遂に限界が来た。
「あの、すみません、入って宜しいでしょうか?」と、私は恐る恐る声を掛けた。
二人はとてもびっくりした様子で、声を揃えて「すいません!」と叫び、すぐに退いてくれた。
私は恐縮しながら家に入り、しばらく経った頃、いつもの歌が壁を越えて耳に入ってきた。
ああ、今夜もライヴなんだな。
彼等は本当に音楽が好きで、一生懸命やっているんだな。
その真摯さが眩しくて、温かい気持ちにもなってきて、私も家の中で同じ歌を口ずさんだ。
彼等と言葉を交わしたのは、この夜の一度きりで、私はその後別の街に引っ越して、彼等の歌を聞く機会はなくなってしまった。
しかし、この出会いがあって以来、街でストリートミュージシャンを見掛けると、胸に温かい気持ちが蘇るようになった。
頑張ってるね、楽しんでね、と心の中でエールを送っている。
時は流れ、令和の世になってからも、ふと思い出す事がある。
あの繁華街の青年二人組は、今どうしているのだろう。
彼等は何故、あの場所を選んで歌っていたのだろう。
先述の通り、随分昔の、片田舎の街である。
現在に比べ、当時は若者や家族連れが楽しめるような、カラオケやゲームセンターなどの娯楽は少なく、夜の街に繰り出すのはおじさまばかりだった。
リスナーになってくれそうな若者がいない上、時代と場所を考えれば、スカウト目的の音楽関係者が偶然通り掛かる確率は、ゼロではないにせよ非常に少なかったはずだ。
彼等は単に練習場所が必要だっただけなのか、誰かに歌を聞いて欲しかったのか、それともプロを目指していたのか、今となっては訊いてみる術もない。
憶測で大変申し訳ないが、彼等が歌っていたのは誰が聞いている、聞いていないを超えて、「歌が好きだから」という、純粋な情熱からではないだろうか。
「人に聞かれてこその歌
ではあるが、その根本にある「歌が好き
という、眩しいほどの強い気持ちに突き動かされていたのではないか。
作詞に長く携わっていると、アイディアがどうにも降りて来ない時、作品を提出した後で書き間違いに気付いた時、作品が不採用だった時など、がっかりする瞬間を嫌というほど経験する。
その内に、かつて彼等の中に見たような、ありのままの熱い思いを寄せられる「何か」を見失ってしまう。
そんな時には、意識的に原点回帰を心掛けている。
何故音楽に携わる道を選んだか、などと固く考えず、ただ自分は何が好きか、何が楽しいか、どんな時に心地好さを感じるかなど、肩の力を抜いてイメージしてみるだけだ。
思うようにいかない事や、世の移り変わりの激しさを理由に、自分の最も素直な部分を忘れてはいないか、優しく心に触れるようにして問い直してみる。
さて、私は何が好きだろう…食べる、眠る、散歩する、温泉に入る、金魚を飼育する…思い付くまま挙げてみて、長年の親友のように大好きなのは歌だ、という事実に改めて行き当たる。
私はやっぱり歌が好きだったんだ、という気付きに安堵して、再び明るい気持ちでスタートラインに立つ。
作詞家として活動する以上、好きだから、楽しいからだけでは語れない部分は多々あるが、そのシンプルな感情こそが根幹なんだよ、と私は彼等の姿から教えてもらったように思う。
創作の苦しみも、失敗も、目の前の結果に踊らされて一喜一憂しても、いっそ全部楽しんでしまえばいい。
失敗を反省したら、笑い話に変えるのもアリだ。
誰が見ていても、見ていなくても、自分がやると決めた事に対して誠実でありたい。
情熱を忘れそうになると、思い出す昔話である。
そして彼等が今でも、音楽に親しんでいてくれる事を願ってやまない。
まるちきのこ