推しがいるから

「推しがいるから頑張れる

とは、推し活をしている方からよく聞かれる言葉だ。

推し活は近年の流行語になっているので、既に意味をご存じの方は多いと思う。

一応ご説明させていただくと、推しとは主に贔屓の歌手、アイドルグループ、俳優、声優、タレントなどの人物を指す。

中には、アニメやゲームのキャラクターといった二次元の推し、刀剣、鉄道、動物など人物以外の推しも存在する。

それらの推しを愛して応援するのが推し活で、活動内容は多岐に渡るが、今回のコラムでは、どうか推しが歌手である場合の推し活について、語らせていただきたい。

まず思い付くのは、音源を入手する、ライヴに行く、握手会等のイベントに行く、ファンレターを書く、関連グッズを集める、などであろうか。

前回のコラムでも触れたが、私の推しはヴィジュアル系ロックバンドLaputa(ラピュータ)であり、そのヴォーカリストakiであった。

私がLaputaやソロとしてのakiのライヴに通い詰めていた1990年代から2000年代には、推し活という言葉自体なかったので、そう呼ぶにはちょっとした違和感があるが、私自身、先述のような活動には大いに没頭していた。

私の経験から申し上げると、推し活にはお金も時間も掛かるが、掛けただけの幸福感や満足感は、確かに得られると断言できる。

今では配信リリースも多いが、CDDVDを入手できれば、楽曲を繰り返し楽しめるのと同時に、美しいデザインやアーティスト写真の入った記念品を受け取れたような感慨に浸れる。

ライヴに出掛ければ、推しと同じ空間で生歌を聞けるという、最高の贅沢を味わえる。

次のライヴやイベントを待つ間は、前回のライヴの感動や感謝をどう伝えようかと、何度も手直しをしながら手紙をしたためてみる。

楽しみがあれば心が満たされ、日常でも自然と笑顔が増えてゆく。

推しは人生に彩りを与えてくれると共に、全ての憂さを忘れさせてくれる存在でもある。

推しの事を考えれば、いかに現実世界が辛くても乗り越えて行けるし、日々の癒しになったりモチベーションアップに繋がったりもする。

新しい事に挑戦する勇気だって、もらえるだろう。

冒頭の「推しがいるから頑張れる」とは、まさにこの事だ。

そんな途方もないパワーをもたらしてくれる推しには、私はとても感謝していたし、いつまでも輝いて欲しい、幸せであって欲しいと、心から願っていた。

私は作詞家になった事で、推し活をする側、つまり楽曲などのコンテンツを受け取って楽しむ側だけでなく、楽曲を制作する側にも加わった。

言うまでもなく、歌手の方々には沢山のファンが存在する。

彼等、彼女等は、沢山の誰かによって心酔されている推しなのだ。

新たな作詞コンペの連絡をいただく度、その○○さんという歌手のファンが求めるものは何だろうと、まずは思いを巡らせてみる。

〇〇さんの今ある楽曲、声質、持っている雰囲気などを考慮して、ファンに納得していただける歌詞を創らなければならない。

私がファンの立場でもそう思うように、だ。

もしも、ガツンとした本格ハードロックを歌うakiが、ポップな女性アイドルソングを可愛らしく歌おうものなら、私は奇声を上げて卒倒するに違いない。

新曲に驚きや新鮮味は加えたいが、その人らしさが悪い意味で壊されてしまう事を、ファンは望まない。

推しには推しその人らしい、最高の歌を歌って欲しいのだ。

どんな世界観が良いか、どんな言葉遣いが似合うか、日本語と英語のバランスは取れているか、歌いやすいか、感情移入しやすいか、など色々頭をひねりながら突き詰めてゆく。

なかなかの苦行である。

ところで、作詞コンペという形で歌詞の募集が行われる以上、落選は付き物である。

真剣に書いた作品が日の目を見なければ、残念を通り越して腐った気持ちにさえなる。

嘘は好まないので正直に申し上げるが、落ちて、腐って、投げ出して、というのは日常茶飯事だ。

しかし、そんな私の不貞腐れた感情とは無関係に、沢山の歌手と沢山のファンが今、この世界で輝いている。

沢山の人が輝けるその一端に、微力ながら参加させていただけている有難みを思い返し、両手で自分の頬をピシャリと叩く。

しっかりしろ、自分。

そうして気合いを入れ直して再びペンを握り、○○さんのファンが求めるものはと改めて心に問い、作詞の世界にいそいそと戻って来るのである。

推し活は楽しい。

誰かのファンである事は楽しい。

そして、どなたかの推しを違う形で応援させていただくように歌詞を書くのもまた、結局は楽しいのである。

前回、今年829日開催のLaputaライヴについて触れた。

Laputa2004年に活動を休止し、昨年9月に一夜限りの復活を果たしたが、今回の公演についてベーシストJunjiXの記述から、これがLaputaとしてのラストライヴになるであろう事を悟った。

この日をもってLaputaは再度の活動休止か、或いは解散になってしまうかも知れない。

再び推しを失う事がほぼ確定している中、もし最後なら私らしく全力で楽しもうと、必死で叫び、歌い、踊った。

夢中だった過去の記憶が蘇り、それが鮮やかであればあるほど別れは

ないが、仕方ない。

ライヴが終わりに近付き、いよいよ心が悲鳴を上げ始めた時、思い掛けないメンバーの言葉が耳に届く。

メンバーの出した結論は活動休止でも解散でもなく、ファンの熱量に応えての「バンド継続」だったのだ。

何という奇跡!

終わりだと覚悟していたものが、終わらなかった。

諦めの涙が嬉し涙に変わった事は、言うまでもない。

安堵の訪れと同時に、次のライヴはいつだろうと期待し、必ず行くぞ、行くしかない、などと早くも決意してしまった。

私は幾つになっても、心は「永遠のバンギャ(=バンギャル、ヴィジュアル系バンドを応援する女性)

なのだと、自覚した一夜であった。

ライヴが終わって静かな日常が戻った頃、Laputaの楽曲を聞きながらふと考えた。

精魂込めて書き上げた作品が落選しても、先が見えなくて腐っても、私は何度でも立ち上がって前進できそうだ。

大丈夫。

推しがいるから頑張れる。

まるちきのこ